第一次世界大戦時に塹壕戦の突破を目的とした兵器として開発された。戦間期から第二次世界大戦にかけて、武装、重量、装甲厚と機動性などの違いによる多種多様な形態の戦車が登場し、戦場で評価されていった。
第二次世界大戦によって機甲部隊による運用方法が確立されてくると、求められる任務の大半をこなせる主力戦車に集約されはじめ、主力戦車では重くて対応できない要求に応じて作られた軽戦車や空挺戦車、水陸両用戦車といったものが最後まで残ったが、それも徐々に姿を消し、21世紀初頭現在では1種類の主力戦車にほとんど統合されている。
近代工業化による内燃機関の発達にあわせて、第一次世界大戦前より各国でのちに戦車と呼ばれる車輌の構想が持たれるようになっていたが、技術的限界から実現されることはなかった。
第一次世界大戦で主戦場となったヨーロッパでは大陸を南北に縦断する形で塹壕が数多く掘られたが、初期の装甲車では巧妙に構築された塹壕線、機関銃陣地、有刺鉄線などを突破することが出来なかった。鉄条網と機関銃による防御側の絶対優位により生身で進撃する歩兵の損害は激しく、歩兵と機関銃を敵の塹壕の向こう側に送り込むための装甲車両が求められることとなった。また第一次世界大戦では敵対する両軍が互いに激しい砲撃の応酬を行った為、両軍陣地間にある無人地帯は土がすき返され、砲弾跡があちらこちらに残る不整地と化して装輪式車両の前進を阻んでいた。これらの閉塞状況を打破するため、歩兵支援用の新兵器の研究が各国で開始された。このとき注目されたのが、1904年に実用化されたばかりのホルトトラクターであった。これはアメリカのホルト社、現在のキャタピラー社が世界で最初に実用化した履帯式のトラックで、前線での資材運搬や牽引に利用されていた。
ホルトトラクターを出発点に、イギリス、フランスなどが履帯によって不整地機動性を確保することを図って装軌式装甲車両の開発をスタートさせた。
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イギリスでは、飛行場警備などに装甲車を運用していたイギリス海軍航空隊が陸上軍艦(Landship)の提案を行い、1915年3月、当時海軍大臣であったウィンストン・チャーチルの肝いりにより、海軍設営長官を長とする「陸上軍艦委員会」が設立され、装軌式装甲車の開発が開始された。陸上軍艦委員会による幾つかのプロジェクトののち、フォスター・ダイムラー重砲牽引車なども参考にしつつ、1915年9月にリトルウィリー(LittleWille)を試作した。リトルウィリー自体は、塹壕などを越える能力が低かったことから実戦には使われなかったが、改良を加えられたマザー(Mother)が1916年1月の公開試験で好成績を残し、マーク I 戦車(Mk.I戦車)の元となった。
Mk.I戦車が初めて実戦に投入されたのが1916年9月15日、ソンム会戦の中盤での事だった。
世界初の実戦参加であったソンム会戦でMK.I戦車は局地的には効果を発揮したものの、歩兵の協力が得られず、またドイツ軍の野戦砲の直接照準射撃を受けて損害を出した。当初想定されていた戦車の運用法では大量の戦車による集団戦を行う予定であったが、このソンムの戦いではイギリス軍が投入できる戦車の数は50輌弱と少なく、結局膠着状態を打破することは出来ずに連合国(協商国)側の戦線が11kmほど前進するにとどまった。
その後、1917年11月20日のカンブレーの戦いでは世界初となる大規模な戦車の投入を行い、300輌あまりの戦車による攻撃で成功を収めた。その後のドイツ軍の反撃で投入した戦車も半数以上が撃破されたが、戦車の有用性が示された攻撃であった。第一次世界大戦中にフランス、ドイツ等も戦車の実戦投入を行ったものの、全体として戦場の趨勢を動かす存在にはなり得なかった。